ビール好きのひとにはやさしい、というか目にとまりやすい(笑)、あの「ハッピーアワー」だけじゃなく、高円寺を日中歩いていると、けっこう「ハッピー」の文字を目にしていることに気づきました。
さらに付け加えるとそれだけじゃなくて、これが今回のテーマなのですが、ハッピー(あるいはHAPPY)というカタカナ4文字(アルファベット5文字)を目にした瞬間、たったそれだけの文字なのに、何だかちょっとうれしい気持ちになっていることに気づきました。
絵文字や顔文字でもなく、一文字でなんとなくにせよ意味が伝わる漢字でもない、カタカナ(やアルファベット)なのに。
もちろん、その「うれしい」という気持ちの度合い(=うれしさの程度)は人によって違うでしょう。そもそも「うれしくもなんともない」という人もいるでしょう。
でも、そんな度合いは別にすれば、だれもがいちどは「うれしい」という共通の感情を持つことができる、そんな可能性がこの文字にはあると思いました。
それはまるで、文字がFMとかTVの電波で、ぼくたちがその受信機といえる関係かもしれません。でもすぐに
(いつも文字から発信してくれるわけではなくて、ぼくたちからも文字に発信しているのでは?)
なんて思い直しました。
「ハッピーという文字を見たら、うれしい気持ちになる。」
それはもちろん保証されたものではありませんよね。ぼくたちの気持ちだとか生活だとか行動だとか、とにかくぼくたちから出ていくありとあらゆるいろんな動きが、その文字が持っていてくれた「うれしい」を変えてしまうかもしれない・・・。
そんなことを考えました。もちろん、うれしい、を感じ続けたいのです。
さて一方、うれしいときにもぼくたちは、「悪口」のような言葉を口にすることもありますよね。
友だちとの会話の途中で、思わぬうれしい事実や相手の気持ちを知って、照れ隠しで「ばかじゃない?!」「うるさいなーもう!」とか。
そう、これはその前の関係、会話があるから、悪口を口にすることができているんですよね。
これがいきなり、悪口のみが書かれている看板や広告が目の前にあったら・・・という話です。
ここで、なんだかビートルズのジョン・レノンさんが体験したというオノ・ヨーコさんの個展のお話「YES」を思い出したりもする、この「ハッピー」という文字。
これから会話がはじまるかもしれない、その前のあいさつや、スタートの合図のような言葉にも思えてきます。
まちがいないのは、会話の中で悪口でうれしさを伝えることはあっても、このハッピーだけは、うれしいというままで、
まちがっても悪口として使われたりしないでいてほしいということです。
こういう制限があるからこそ、自由が広がっていくのでは?と思った高円寺の日中でした。