阿波おどりという列車


阿波おどりが終わってからはや9日が過ぎました。

個人としても、こうした高円寺のタウンマガジンをやっている立場としても、

書きたいことは山ほどあることは分かっているのに、

そんなことはいうまでもないといった思いがあふれているのに、

気がつけば何も書かないまま、こうして時間が経っていました。

 

それはなぜかと考えたのですが、

ずばりそれは「いろんな思い」がどれも強い力で、

ぼくの頭をはじめ、体中をかけめぐっていたからだと気がつきました。

そして、そのいろんな思いをすべて捕まえたいと思うあまり、

捕まえられず何も書けなかったようです。

 

考えてみれば、あの阿波おどりそのものが、

おどる人、それをながめる人のいろんな思いが映った窓を見せながら走る、

誰もが乗ることができる列車のようでした。

そして100万とも120万ともいわれる参加者が高円寺中を動き続けていたのに、

それほどの数だったら起こってもおかしくないケガや争いも聞かず、

2日間が終わっていきました。

この点でもやはり、ひとつの大きな列車に乗っていたような気にもなります。

もちろん、それは協会やボランティアのみなさんをはじめとした

多くの関係者の方のご準備と当日のご対応があったからというのは間違いないでしょう。

でもそれにくわえて、だれもが無意識に列車のマナーを守っていたような気がします。

守らないといけないということじゃなく、結果的に守っていたという感じです。

 

そもそも、いろんな思いって何でしょう?

それには、単純に「楽しい」ってこともあるでしょうし、

そんな単純じゃない「楽しいような悲しいような」ってこともあるでしょうが、

間違いないのは、けっして「楽しい」「うれしい」だけじゃないだろうってことです。

 

それではと、いろんなをおおざっぱに喜怒哀楽の4つにまとめたとします。

するとその喜、怒、哀、楽はスピードメーターや秤(はかり)のように、

速さや重さに幅があり、それら4つはどれもが、

たがいに混ざり合うということがありそうに思えてきます。

ともかく、それぞれが壁や列車の扉のように、

きちんと分かれているわけではなさそうです。

そして、どれが優れていてどれが劣って・・・

といった優劣もなくみんな平等な感じもします。

 

じゃないと、みなを乗せた列車だといえませんよね。

 

すごく秩序があるのにすごく自由な感じがしますね。

 

こうして気がつけば、ぼくはすべて捕まえようとするのをあきらめていました。

 

いろんな思いはいろんな思いのまま、受け入れたらいいと思ったのです。

ひとつひとつを取り出して、たとえば仮に

「喜70%哀5%楽25%」だと発見した思いがあったとしても、

その思いにいちいち名前をつけることはないと思ったのです。

 

じつはそんなことはとっくにぼくの目は知っていたというか、

阿波おどりの最中に出会っていました。

 

第56回東京高円寺阿波おどり初日、純情商店街でのひとコマ

 

それは、阿波おどりをながめているひとたちの表情でした。

撮影した写真を見直すうちに気がついた、いや、思い出したのです。

ぼくはおどっている連の方々を見るのと同じくらい、

連をながめているひとたちを見ていました。

 

連をながめているひとたちの表情には、

まさにいろんな思いが浮かんでいたように見えました。

それは連をながめながら自分をながめているような表情にもみえました。

もっとも、ぼくもまた自分をながめていた気がしています。

 

捕まえようとしつつ、圧倒されるわけです。そしてその魅力に捕まえられるわけです。

 

もうひとつ、終了後に、それをひと目で教えてくれるような風景に出会いました。

それはこの夕方の空です。

 

阿波おどりが終わって数日後、高南通りから見上げた空

 

夕暮れと書くと、

何かが終わるという感じが強く出てしまいそうなので、夕方の空と書きました。

ともかく、このゆるやかなグラデーションが、いろんな感情のように見えました。

おおげさかもしれませんが、阿波おどりが空に映ったかのように思いました。

 

グラデーションは、目に見える明るさといった色の差はありますが、

どの色が一番といった優劣の差はないんですよね。

 

阿波おどりの「連」とはうまいこと言ったものだと思いました。

連とはいろんな思いであり、グラデーションであり、

ながめているひとのいろんな思いといっしょになると

列車になる・・・そう思いました。

 

じゃあ、その列車は今どこを走っているの?そんなことも思いはじめます。

 

あんなに圧倒されて、こんなにまだ興奮が残る阿波おどりの記憶も、

もちろん、ずっと同じままではないでしょう。

だいいち同じだったら、勉強や仕事が手につかなくて困りますよね。

ここでもうまいこと出来ているもので、そのうち、だんだん、

ふだんは忘れているようになってくるのでしょう。

 

でも、この記憶もまた、連ではないかと思うのです。

休むことが出来たら、またゆるやかに戻ってくるのでしょう。

やってくるのでしょう。

 

 


著者について

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